千のナイフ

千のナイフ

”テクノポップ”という言葉もスタイルもまだ無かった時期に、音楽においてのコンピュータやシンセサイザーの使い方を暗中模索しながら作られ、レコーディングには延べ500時間くらいかかったという。当時の坂本は、昼間にスタジオミュージシャンをこなし、夜12時から朝までこのアルバムを作成し、何ヶ月もかかったが、寝なくても平気だったと回想している[1]。 コンピュータ・オペレーターは松武秀樹が担当。坂本はシーケンサーMC-8を初めて利用したが、このとき、音楽のノリ(はね方)を数値で分析して、コンピュータで表現することを発見している。ギターで渡辺香津美が参加。坂本からの注文は「火がついたように弾きまくってくれればいいから」だった。山下達郎もカスタネットで参加している。 このアルバム作成で、坂本らはYMOに繋がる製作手法のノウハウを得た。 タイトルはベルギーの詩人アンリ・ミショー(fr:Henri Michaux)がメスカリン体験を記述した書物『みじめな奇蹟』(fr:Misérable miracle)の冒頭の一節からとられた。 ジャケット写真のスタイリストはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバー高橋幸宏が担当。当時の坂本は長髪にTシャツというファッションとは無縁な風貌だったが、ジョルジオ・アルマーニのジャケットにリーバイス501ジーンズというコーディネートで周囲の持っていた坂本へのイメージを一新した。 ライナーノーツでは、細野晴臣が自らのコンセプト「イエローマジック」に絡めた寄稿文を掲載している。 当アルバムの発売に伴い、1978年10月25・26日に東京・六本木のピットインで「千のナイフ発売記念ライヴ」が催された。

千のナイフ

坂本龍一 · 278092800000

”テクノポップ”という言葉もスタイルもまだ無かった時期に、音楽においてのコンピュータやシンセサイザーの使い方を暗中模索しながら作られ、レコーディングには延べ500時間くらいかかったという。当時の坂本は、昼間にスタジオミュージシャンをこなし、夜12時から朝までこのアルバムを作成し、何ヶ月もかかったが、寝なくても平気だったと回想している[1]。 コンピュータ・オペレーターは松武秀樹が担当。坂本はシーケンサーMC-8を初めて利用したが、このとき、音楽のノリ(はね方)を数値で分析して、コンピュータで表現することを発見している。ギターで渡辺香津美が参加。坂本からの注文は「火がついたように弾きまくってくれればいいから」だった。山下達郎もカスタネットで参加している。 このアルバム作成で、坂本らはYMOに繋がる製作手法のノウハウを得た。 タイトルはベルギーの詩人アンリ・ミショー(fr:Henri Michaux)がメスカリン体験を記述した書物『みじめな奇蹟』(fr:Misérable miracle)の冒頭の一節からとられた。 ジャケット写真のスタイリストはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のメンバー高橋幸宏が担当。当時の坂本は長髪にTシャツというファッションとは無縁な風貌だったが、ジョルジオ・アルマーニのジャケットにリーバイス501ジーンズというコーディネートで周囲の持っていた坂本へのイメージを一新した。 ライナーノーツでは、細野晴臣が自らのコンセプト「イエローマジック」に絡めた寄稿文を掲載している。 当アルバムの発売に伴い、1978年10月25・26日に東京・六本木のピットインで「千のナイフ発売記念ライヴ」が催された。

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